今年で25周年という節目を迎えたJリーグ。過去、何人ものスター選手が来日し、日本サッカーを盛り上げてきたなかで、「最強の助っ人キーパーは?」という質問があれば、真っ先に思い浮かぶ人物……それが清水エスパルスで活躍したシジマールだ。長い腕をいかした守備範囲の広さから「クモ男」の異名で呼ばれ、「731分間連続無失点」は、今もJ1無失点記録の歴代1位を誇っている。

 

引退後はゴールキーパーコーチとして何人ものJリーガーを育成する傍ら、「ゼッタイ負けなーい!」のフレーズでメディアでも活躍。そして昨年、J3の藤枝MYFCで、「54歳でのベンチ入り」という、Jリーグ最年長記録をつくったことでも話題を呼んだ。Jリーグで活躍できた理由、そして指導者としての想いを伺った。

 

Jリーグが始まる前からあった、日本との不思議な縁

僕が清水エスパルスに入団したのがJリーグ元年、1993年の7月のこと。今年は「Jリーグ25周年」ということですが、僕とJリーグの付き合いも25年、ということになります。

 

でも、実はそのずっと前から日本との関わりがありました。1986年、サンパウロ州の選抜メンバーとして、日本で試合をする機会に恵まれたんです。そのときの正ゴールキーパーは、当時、セレソン(ブラジル代表)でもプレーしていたレオン。控えキーパーが僕でした。

 

初めて来た地球の裏側・ニッポンは、とても素晴らしい国でした。そしてなぜか、いつかここに戻ってくることになる、と思えたんです。当時はまだ、Jリーグなんて影も形もなかったのに不思議ですよね。そして、レオンと同じチームでプレーできたことも大きな財産になりました。レオンはW杯に4回も出場したスーパースター。物心ついたときからキーパーだった僕にとって、まさに憧れの存在だったです。

 

その後、レオンは指導者へ転身。ポルトゥゲーザというクラブの監督になったとき、僕をトップチームの正ゴールキーパーに抜擢してくれました。だから、エスパルスの監督になったレオンから、「日本に来て助けてくれないか」と連絡があったときには、「レオンのために」と、なんの迷いもなく移籍を決断しました。

 

そして、「これは僕の人生最大のチャレンジになる」ということもすぐにわかりました。だって、海外リーグから声がかかる助っ人選手は、普通、フィールドプレーヤーです。貴重な外国人枠のひとつにキーパーをあてる、というのはとても異例なこと。恐らく、反対意見もあったでしょう、それでも、レオンは僕のことを期待して呼んでくれた。だからこそ、「その期待に応えたい」「このキーパーを呼んで良かったと思ってもらえるように頑張らないと!」と、日本に着くまでの長いフライトの間、ずっと考えていたことを憶えています。

 

今でも忘れられない、あのときのレオンの目と表情

僕がエスパルスでデビューしたのが、93年シーズンの2ndステージ第2節。この試合を2対1で勝利したあと、次の第3節からは6試合連続で無失点に切り抜けました。「731分間連続無失点」という記録は、今もJ1歴代1位だそうで、自分でもとても誇らしく思っています。

 

なぜ、この連続無失点記録をつくることができたのか? もちろん、チーム全体の高い守備意識があったおかげ。でも、実は僕自身に「無失点」に対する大きなモチベーションがあったんです。これは今まで一度も打ち明けたことがありませんでしたが、せっかくの機会なのでお話したいと思います。

 

デビュー戦が2対1だった、というのは先程お話しましたね。その1点を取られたとき、ベンチにいるレオン監督と目があったんです。あのときのレオンの目と表情は今も忘れられません。「おいシジマール。お前、点を取られるのか? それじゃ、他のキーパーと同じじゃないか!」……明らかにそんな表情をしていたんです。

 

そして、僕は日本に来るフライトで考えていたことを思い出しました。他のチームメイトも、そしてサポーターも、「どうして海外からキーパーを呼んだんだ?」という目で僕を見ている。そして何よりもレオンの期待に応えるためには、ただ勝つだけじゃダメなんです。僕は改めて、「無失点じゃないとダメだ、絶対にゴールを許さない!」という強い覚悟を持って次の試合に臨み、なんとか無失点に抑えました。

 

それからも、「シジマールを呼んで良かった」と思ってもらいたい一心で、1試合、また1試合と無失点を続けていくうちに、チームメイトもどんどん信頼してくれるようになり、無失点記録が続いたんです。おかげで、当時のエスパルスはとても絆の硬いファミリーになれたと思っています。いいチームであるためには、何よりもファミリーであることが重要なんです。

 

対戦したなかで、一番嫌だったJリーガーは……

今、改めて思い返すと、「731分間連続無失点」は本当にすごい記録ですよね(笑)。だって、当時のJリーガーの顔ぶれはとんでもなかったですから。

 

ヴェルディにはカズ、北澤(豪)、武田(修宏)。アントラーズにはジーコ、レオナルド、ジョルジーニョ。ジェフにはリトバルスキー。フリューゲルスはエドゥ、モネ―ル、アマリ―ジャ。マリノスはサパタ、ラモン・ディアス、ビスコンティ。レッズは福田(正博)……。よく、対戦して一番嫌だったJリーガーは誰? と質問されますが、そんなの、ひとりだけは選べません。どのクラブにも各国のセレソン級がいて、本当にスーパースター揃いでしたから。

 

おまけに、当時のJリーグはシュート本数がとても多かった。今は1試合平均10本前後ですが、当時のエスパルスは1試合平均15本前後、多いときには20本近くのシュートを打たれていて、とにかくキーパーは休む時間がなかった。もちろん、エスパルスにも、(長谷川)健太、澤登(正朗)、大榎(克己)……と、いい選手が揃っていたから、相手キーパーもさぞかし大変だったでしょうね(笑)。本当にリスペクトすべき選手ばかりでした。

 

リスペクトといえば、僕はエスパルスのサポーターにも、感謝とリスペクトの気持ちをいまだに忘れていません。2年目の1994年、エスパルスとの契約が終わってブラジルに戻ったんですが、サポーターの皆さんが僕にもう一度エスパルスに戻ってほしい、と署名運動をしてくれたんです。実はサンパウロ市の大きなクラブからオファーが来ていましたが、皆さんの署名に心を動かされ、1年目以上に大きな責任を感じて日本に戻ってきました。

 

だから、僕は今でも、エスパルスに対する特別な思いがあります。本当にエスパルスサポーターのことが大好きです。サッカーの歴史を振り返っても、サポーターからの署名で選手が戻ってくる例はほとんどありませんからね。

 

引退しても、フィジカルコンディションは高く

現役引退後、サッカークリニックの仕事で来日を重ねているうちに、エスパルスへの感謝の気持ちは、やがて日本に対しての感謝や愛へと広がっていきました。こんなにも愛されてよくしてもらったんだから、日本のため、日本のサッカーのために恩返しがしたいという気持ちが強くなって、指導者としても日本を拠点に活動するようになったんです。

 

指導者として日本サッカーと向き合って感じるのは、日本のキーパーは技術に関しては一生懸命に勉強するけど、フィジカルに対して意識が弱い、ということ。フィジカルが良ければ反応速度も、動きそのものも速くなります。結果としてそれはいいポジショニングにもつながるし、気持ちでも有利に立てるようになるんです。ブラジルやヨーロッパの選手たちは、技術を学ぶこと以上に、フィジカルも重要だということを理解していますよ。

 

フィジカル、というのは、体の基本性能があげるのはもちろん、日々のコンディションを高く保つ、という意味もあります。サッカー選手にとって、体は大切な商売道具。いつもきちんとメンテナンスをしなくてはいけません。自分は今、コーチという立場ですが、フィジカルコンディションは現役時代と同じくらい気を配っています。

 

だって、私が太った体で指導しても、選手たちは信頼してくれないでしょう。ましてや、選手たちのなかには現役時代の私を見て、憧れを抱いていたかもしれない。だから、今でも選手たちの見本になれるように、励ましになるように、常にフィジカルコンディションには気を使っています。

 

昨年、藤枝MYFCのキーパーが同時期に二人もケガをしてしまい、私が急遽、選手登録をしてベンチに座る、という緊急事態がありました。結果として出場せずにすみましたが、ベンチ入りできたのは、普段からフィジカルコンディションを高く保っていたから、という要因も大きいと思います。

 

「54歳で選手登録」の舞台裏

それにしても、昨年の「54歳で選手登録」というニュースに関しては、皆さんをお騒がせしました。私のメールボックスも、藤枝MYFCのメールもどれもいっぱいになって、温かいご声援もいただきました。

 

そのなかには、5分でいいからシジマールを出してほしい、という要望もありました。もし出場すれば、54歳の私はカズ(※当時50歳)より年上だから、Jリーグの最年長出場記録を塗り替えることになるわけです。

 

でも、サッカーというのは難しいスポーツです。記録のことばかりを考えてプレーしてしまうと、それまでうまくいっていた藤枝MYFCがバラバラになりかねません。たとえば、3対0で勝っている試合で、最後の5分だけ私が出場したとする。でも、そこで失点したらどうするのか。アディショナルタイムも含めれば5分以上。同点になる可能性だってゼロではありません。もしそれで勝てなかったとしたら、「誰のせいなのか?」という責任問題になります。

 

失点してしまった僕の責任? 起用した監督の責任? それを求めた周囲の責任? どれかひとつだけの問題ではないと思います。だから、試合に出ていたキーパーにアクシデントがあった場合にだけ出場する。記録のためだけには出ない、とチームみんなで決めたんです。この決断は今でも正しかったと思っています。僕が出場しなかったことにガッカリされた方もいるかもしれませんが、そういう事情を理解していただけるととても嬉しいです。

 

でも、こういった共通認識を持つことができている藤枝MYFCは、とてもいいクラブだと思っています。そしてそんなクラブで、僕自身は今季からヘッドコーチを担当することになりました。

 

ゴールキーパーコーチを務めていた昨年までは、「キーパーファミリー」という言葉を使ってキーパー陣をまとめてきました。でも今季からは、キーパー以外にも目を配っていく必要があるし、フィールドだけでなく、サポーター、フロント、クラブ全体が一緒になって、力を発揮できる環境をつくっていくのが僕の仕事です。

 

コーチが明るく元気であれば、選手たちにも伝わるはず

どんなチームでも、皆がひとつにまとまれば強くなるし、そうでなければ勝てません。ブラジル代表だって、チームがまとまらなかった2014年のW杯では、ドイツ相手に1対7という惨敗をしています。

 

でも、今のチッチ監督のブラジル代表は違います。チッチとは一緒にプレーしたことがあるからわかるんですが、彼はセレソンであっても、「チームはファミリーだ」という意識で接する人物です。ビッグクラブでプレーしていようが、年俸がいくらだろうが関係ない。どんな相手とも「ファミリー」として接しているから、今のブラジルは負けないんです。そこから、僕自身、学ぶべきことがあると思います。

 

たとえば、毎朝、練習が始まる前に選手とちゃんと挨拶を交わす。お辞儀の姿勢ひとつとっても、以前とちょっと角度が違うな、何か落ち込んでいるのかな、という気づきがあるかもしれない。そんなときこそ、近づいてちょっと声をかけてあげる。選手ひとりひとりがファミリーの一員である、という認識を持てるようにするのが、ヘッドコーチたる自分の務めだと思っています。

 

そのためにもまずは、自分自身が元気であること。コーチが明るく元気であれば、選手たちにも伝わるはず。だから、自分の体のコンディションと健康に気を配って、ジョギングも、試合形式の練習にも混ざれる体力を維持したいと思っています。そこで武器になるのが「オレは摂取す」です。

 

 

他のチームにはなくて藤枝MYFCにあるのが、「オレは摂取す」。去年からスポンサードしてもらって、練習のあとにいつもみんなで飲んでいます。こうした日々の摂取こそが、体をより強く、丈夫にしていくんだと思います。

 

経営者・アスリートの為のハードボイルドゼリー飲料「オレは摂取す」

 

藤枝MYFCは今、J3ですが、ここからJ2、J1へと登っていくクラブです。僕は、その歴史のなかに一緒にいたい。それは必ず叶うことだと信じているし、実現できれば、かかわった選手やコーチだけじゃなく、サポーターや街の皆さんにとっても誇りになります。これほど素敵なことはないですよね。そのためにも、健康第一でこれからも過ごしていきたいと思います。

 

INTERVIEW
シジマール・アントニオ・マルチンス
ブラジルサンパウロ州生まれ。17歳でグアニラFCとプロ契約。93年、清水エスパルスと契約。同シーズンに記録した731分間連続無失点は、2018年現在もJ1の無失点記録を保持する。引退後は柏レイソル、ヴィッセル神戸のゴールキーパーコーチを歴任。現在、藤枝MYFCのヘッドコーチを務める。

(企画・構成:株式会社ninoya
(文:オグマナオト)